ふるふる哲学

学びの過程を記しています。ブログの各記事は、基本的に「総まとめ」を作成する上での下書きです。

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自説:一者との合一は不可能である

投稿日:2022年1月13日 更新日:

一者との合一は不可能である。
一者は、常に持続を創造する存在を超えた存在であり、
存在を超えた存在であるため、我々存在する者が一者と合一することは不可能であると思われる。

では、仏教の言うところの「涅槃に入る」とは、どのような状態を指すのだろうか?
おそらく涅槃に入るとは、宇宙そのものの持続(つまり宇宙霊魂)と合一することであるのではないだろうか。

ショーペンハウアーは、意志が表象として姿を表す際には段階があると言った。
この段階をイデアとして表現し、自然法則を低位のイデアとし、植物、動物を経て、人間を高位のイデアとした。

私が思うに、このイデアの段階は「創造」の段階であると思われる。
高位になるほど、より精錬された創造の賜物である。

創造は、意志の闘争により生み出されていくものであるため、創造と意志の闘争は常にセットになっており、涅槃とは程遠いものである。

ゆえに、自然法則等の低位のイデアになるほど、涅槃に近い存在であると言える。

つまり、「涅槃に入る」とは、低位のイデアに生まれ変わることではないだろうか。

生態系の食物連鎖において、生産者、一次消費者、二次消費者とある。

二次消費者は、より精錬された創造を持続させるために、一次消費者を捕食することによる莫大なエネルギーを得る必要がある。
まさに意志の闘争による創造である。

人間は特に、創造的欲求を常に追い求める存在であり、人間は「創造の究極体」であると言える。

ゆえに、最も煩悩の強い生き物は人間であると言える。
と共に、最も煩悩と無縁の生き物は「生産者」や「分解者」であると言える。

つまり、生産者や分解者といった、低位のイデアの生き物であればあるほど、涅槃に近い生き物である。

宇宙霊魂(宇宙の持続)との合一が、涅槃に入るということであり、
一者は、常に創造を生み出す存在を超えた存在である。

~補足~
上記に記載した >生産者や分解者といった、低位のイデアの生き物であればあるほど、涅槃に近い生き物である。 を考えると、
原始宗教や世界各地の神話の形態である「自然崇拝」が、真理に近い信仰の形態であると考えることができる。

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