AmritaChannelより、
フリーメイソンの思想と仏教の思想には共通点があった【そこから導き出される真の自由・平等・友愛】
https://youtu.be/KUt1mMzt8dM
という動画が凄く参考になると思いました。
フリーメイソンの掲げているもの
「自由、平等、友愛」
ヨーガ、仏教が求めるものも、
「自由=魂の自由・解脱、平等=自他の区別が無くなり全てが平等であるという智慧、友愛=他者への慈愛」
しかし、普通の人がイメージする自由、平等、友愛というのは、ちょっと違う
一説によると、この地球というのは、偶然によって世界の流れができてきたわけではなく、頭のいい一部の人たちによる支配・コントロールの上で多くの実験がなされてきた
それによって社会システムというのが形成されてきた
自由主義と共産主義の対決、それは大いなる実験だったという考え方がある
どっちが正しいか、どっちが利益を生むのか、という実験
一応実験上は、自由主義が勝利を得たように見える
けど、そもそも自由とか平等という意味をはき違えているのではないか
共産主義
人々の欲望は凄くある、エゴもたくさんある、この状態で社会システムだけ平等にしたらみんなやる気を無くす
平等とはいえ、一部の者たちが搾取を行い、多くの民はやる気を無くした(頑張ってもお金持ちになれないから)
自由主義
自分の欲望を満足させ、自分のエゴを尊重し、自分のやりたいように生きる
好きなように金を稼ぐ自由
みんな欲望のままに生きる
ヨーガ・仏教における自由は、「煩悩からの自由、輪廻からの自由、執着といった重荷からの自由」
真の自由=エゴの自由ではなく、エゴからの自由
真の平等=社会システム上の平等ではなく、様々な平等の悟り
真の友愛=民族間、仲間間だけの愛ではなく、一切衆生への愛(全人類、全生命に対して本当に親友のように我が子のように両親のように接する・見る)
社会システムを変えてもしょうがない
1人1人が目醒める(悟る)こと
まずは自分が目醒める(悟る)こと
本来は、自由と平等は対立しない
なぜ自由と平等は対立するか?
一般における自由はエゴの自由だから→つまり平等を望まない
慈悲の瞑想(トンレン)は、自由、平等、友愛を得るための最高の修行の一つ
・自分の幸福を他者に差し出す→私が私がという執着から自由になる
・苦しみください、みんな苦しみを持て余してるでしょうからどんどん私にください
※怒りとは、苦しみの譲り合い(自分の中にある苦しみを誰か受け取ってくれという逆トンレン)
※執着とは、限られた幸福というボールの奪い合い
慈愛は、幸福の与え合い→執着から自由になることで無限の幸福と自由が得られる
苦悩を人に放出することをやめて、自分が受けることを繰り返すことにより、大いなる安らぎ・無限なる苦悩の無い状態になる
幸福を集めることが幸福である 苦しみを周りに放出することが安らぎである、という錯覚がある これがまさに無智
本当に智慧ある者が見たら、どんどんその人は苦しみの泥沼にはまっているだけ
これに気付くことが、平等の智慧に繋がる
一般的な多くの仏教書では、自他の平等視のほうが説かれる場合が多い
自分と他人を平等に見ましょう、あなたは自分がこういう目にあったら苦しくて嫌でしょう、だから他人にも苦しみを与えないようにしましょう、自分とみんなは同じなんですという発想
自他の転換においては、
自分は幸福であれ 他人はどうでもいい、というエゴの働きを無理矢理逆転させる
日々その発想で生きる
我々には元々強いエゴの働きがあるから、二元性を超えて平等にというのはなかなか難しい
エゴ:他人=99:1 これを、エゴ:他人=50:50にしたい
50:50を意識して生きるだけでは、実際には50:50にはならず、90:10くらいにしかならない
99:1を1:99に逆転させることで、実際には50:50になれるかもしれないという発想
その人の性格の問題もあるので、「自他の平等視」「自他の転換」 自分に合うほうを選んで良い
あるときは自他平等、あるときは自他転換とミックスさせても良い
この自他転換の瞑想をよりシステマティックにまとめたのが、慈悲の瞑想(トンレン)
慈悲の瞑想(トンレン)は、仏教の真髄が秘められた修行であるともいえ、呼吸を利用することで、呼吸とトンレンを組み合わせる癖を身に付けることで無意識にトンレンをやりやすくなる