ふるふる哲学

今までいろいろな教えに触れてきましたが、私は「神人さん」の教えが、真の教えとしてとてもわかりやすく感じました。 神人さんの教えに興味のある方は「神人講演会」に参加されることをおすすめいたします。

未設定

自灯明・法灯明についての解釈、仏教とキリスト教について

投稿日:

自灯明・法灯明

「自らを灯明とし、自らをより処として、他のものをより処とせず、法を灯明とし、法をより処とせよ」

と説かれている。

だが、その真理の法というのは、自己意識の中心にあり、それは万人に共通である。

その法灯明を外部にある存在として仮定すると、外部に存在する仮想の法灯明に依存する他のものをより処とする結果になりかねない。

法灯明=自灯明であり、究極的には自灯明のみをより処とする境地が悟りの境地ではないだろうか。

この境地においては、自己=他者=世界そのもの、という境地であり、
自灯明のみをより処とするということは、同時に法灯明をもより処とし、他者や世界そのものもその中に含まれることになる。

悟りの教えを他者に伝えるということは、自分が“もう一人の自分”に教え伝えるということであり、
一人の自分が悟ったとしても、もう一人の自分が悟っていなければ、世界としての自分は悟ったことにはならない。
ゆえに、自分が自分自身を悟らせる、この発想が大乗仏教の発想に繋がってくるのだろう。

そう考えると、大乗仏教も上座部仏教も、アプローチの違いなだけで最終到達地点は同じであるといえる。

キリスト教においても、アガペー(無償の愛)という教えは、
神=自己=他者=世界そのもの、という発想の下、
「自分のことを愛するように、“もう一人の自分”である他者も愛せよ」となり、
キリスト教も仏教も、アプローチや表現の違いなだけで最終到達地点は同じということになる。

忍者AdMax



忍者AdMax



-未設定

執筆者:


comment

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

関連記事

no image

絶対無の場所は、世界そのものかもしれない?

「絶対無の場所」とは、「世界そのもの」ではないか? 絶対無の「無」というのは、意識の視点から見た「無」であり、だが厳密には無ではなく「原意識」と呼ばれる潜在的性質が絶対無の場所にはある。 それと同時に …

no image

ブロック宇宙論とクオリア

心の哲学まとめWiki の 「現象的意識の非論理性」https://w.atwiki.jp/p_mind/pages/139.html と 「意識の統一性」https://w.atwiki. …

no image

もしも地球が「お金のいらない国」だったら(【宇宙くんの手紙】中村咲太 より)

お金をもらうために仕事をしているという意識が現代は強いけど、本来の仕事はお金をもらうためのものなのだろうか? それぞれの人が自分のやりたいことや、やれることをやっていく。素直に自分の能力をいかした仕事 …

no image

チャネリング・リーディングのやり方(深海月Linaチャンネルより)

~チャネリング、リーディング、第六感について(深海月Linaチャンネルより)~はるか昔、文明の機器もなく学問もなかった時代に、人は空の色や雲行き、風の匂いや音の響き、湿度や空気のよどみなどを感じながら …

no image

過去記事1

エヴェレットの多世界解釈 ~『隠れていた宇宙 』(著:ブライアン・グリーン )~ ※以前の自身のブログ記事を転載 エヴェレットの多世界解釈について読んでた。 つまりはこういうことか。 説明すると、 光 …