量子の不思議な特性に「波動関数の収縮」というものがあります。
観測していない時の粒子の状態は「波動」であり、意識が観測すると「粒子」になる。
意識が観測している時の粒子というのは「A地点にしか存在しない」 けど、観測していない時の粒子は「A地点とB地点とC地点、それぞれに粒子が存在する状態の重ね合わせ状態」となるのです。
NTTが「巨視的スケールでの実在性の破れを実証」したように、巨視的スケールでもこの現象は起こりえるそうです。
https://www.ntt.co.jp/journal/1705/files/jn20170520.pdf
これをどう解釈するのか?という問題が「観測問題」であります。
だが、翌々考えてみると、生命がこの世に存在していなかった太古の地球においても「世界」は存在していたわけで、
観測者が存在していなくても、物質は粒子として存在していないとおかしいわけですよね。
そこで、私は「観測問題」というのは「観測者の心の状態の問題」なのではないかと思いました。
我々が今知覚している世界は、脳が感覚情報を基に脳内で作り出した世界です。
実在性の問題は、カントの言う「物自体」の実在と、脳が作り出した「表象」における実在とを分けて考えるべきだと思います。
カントの言う「物自体」は生命の存在の有無に関わらず実在しています。
だが、脳が作り出す「表象」は、脳が無いと実在しません。
哲学者のアンリ・ベルクソンは、実在を持続の流動とする立場から、心(記憶)と身体(物質)を「持続の緊張と弛緩の両極に位置するもの」として捉えました。
ベルクソンの言う実在とは「脳が作り出す表象」における実在であると思います。
もしかしたら、そこに観測問題のヒントがあるのではないかと私は思います。
つまり、持続の「純粋記憶への弛緩」が粒子の波動状態であり、持続の「純粋記憶からの収縮」が物質を脳が知覚した時の粒子状態であると、
そう思うわけです。
そう考えると、ベルクソンの哲学にこそ真理を解明するヒントがあるのではないかと思わざるおえません。