本当の真理は「諸法無我」である。
真の姿は「無我」である。
だが、この世は様々な「我」を生み出すために存在する場である。
この世における人生とは、ただひたすら「我」を追求する場ではないかと、そう思えてきます。
子孫を残すという行為は、自身の分身を生み出して後世に残す行為であり、これも「我」の追求と言えるでしょう。
自分の分身を残すことで、「我」をこの世に存続させる行為が、子孫を残すという行為なのですから。
芸術を生み出すという行為、文化を生み出すという行為も、「我」の追求であると言えます。
自身の内面の世界を芸術という形で表現して、後世に残すという行為であり、芸術を通して自身の内面の世界をこの世に存続させる行為。
文化を生み出すという行為も同様の性質があるように思えます。
クオリアを生み出すことそのものが、「我」の追求にある。
そして、この世は様々な「我」が生まれては消えていく、この繰り返しである。
そして、この世から消えていった「我」は、本来の故郷である「無我」の世界である「涅槃」の世界に帰っていくのである。
「涅槃」の世界とは、どのような世界なのだろうか。
プロティノスの言う「一者」なのだろうか。
または、西田幾多郎の言う「絶対無」なのだろうか。
もしくは、プラトンの言う「デミウルゴス」や、アリストテレスの言う「不動の動者」みたいなものなのだろうか。