ふるふる哲学

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現時点での私の中の結論

投稿日:2021年7月21日 更新日:

私なりに今までの得た知識等を総合して考えてみた結果、現時点での私の中の結論は、

『汎経験説』
(Wikipediaより:汎経験説とは、現象的意識・クオリアといった心的経験が、脳や神経細胞といった巨視的なスケールではじめて生まれるのでなく、もっと根本的なレベルにおいて、すでに何らかの形で存在しているはずだ、という考えのこと。すなわちクォークやレプトンといった、物理現象の基本構成要素自体に、現象的意識やクオリアの元となる何らかの性質(原意識)が含まれているのではないか、とする説。)
が説明するような世界観であると同時に、

ニーチェの言う『永劫回帰』
(Wikipediaより:「時間は無限であり、物質は有限である」という前提に立ち、無限の時間の中で有限の物質を組み合わせたものが世界であるならば、現在の世界が過去に存在し、あるいは将来も再度全く同じ組み合わせから構成される可能性について示唆している)
のような世界観が、この世界の真理なのではないかと私自身は思いました。

(永劫回帰については、サイクリック宇宙論がもし正しければという前提のもとで ちなみに、ペンローズ氏は共形サイクリック宇宙論を提唱している)

ペンローズ氏の提唱する量子脳理論も、汎経験説の一種なので、
ペンローズ氏は、量子脳理論とサイクリック宇宙論を提唱していることを考えると、
「汎経験説+永劫回帰」説は、わりと説得力あるような気がします。

哲学の中だけで語るなら、ショーペンハウアーの意志と表象としての世界が汎経験説な世界観なので、
ニーチェは、ショーペンハウアーの哲学に感銘受けつつも、永劫回帰という自身の哲学を確立させたことから、
「ショーペンハウアー+ニーチェ」な哲学思想が真理に近いのではないかという悟りが私の中にあります。

 

その上で、我々はそんな世界観の中でどう生きるべきか?について、ニーチェ氏は
Wikipediaより:永劫回帰の無意味な人生の中で自らの確立した意思でもって行動する「超人」であるべきと説いた。

ニーチェの言う「超人」になることが、我々に求められているのではないかと。そう思いました。

※現時点の結論なので、また変更点はある可能性もあるし、無い可能性もあります。

 

人間の歴史は「進化の歴史」だと思います。
生物というのは、単細胞生物から多細胞生物へ、そして人間へ進化していった。
人間の歴史そのものも、「人間社会の進化」の歴史と言っても良いと思います。

そこには、自然淘汰というものが働き、適者は勝ち、不適者は負け淘汰されていく。
その不適者たちは、自分自身が淘汰されていく現実を「弱者の哲学」という形で自分たちを正当化しようとした。
その自分たちの都合良いように正当化する「弱者の哲学」に対して、ニーチェは「それは違う」と思ったのかもしれません。

永劫回帰というのは、「永遠なる自然淘汰の中の、生の連続」であると思います。

なぜ世界は「自然淘汰」という苦しみの世界なのか?
それは、「それは、単に物理現象における結果でしかない」からだと思います。

それ以上でも、それ以下でもない。
意味や目的を見出そうとしたところで、それは単に自分たちの都合良いように解釈したいだけでしかない。

結局のところ、意味や目的なんてものはない。
ゆえに、世界を「苦しみである」と捉えること自体も、幻想でしかない。

世界というのは、苦しみの世界でもなければ、幸福の世界でもない。
「ただここにある」だけでしかない。

超人というのは、この事実を悟った者を言うのだと思います。
そして、自然のあるままに、世界を肯定して、「世界の進化の歴史」に参加していくことが、
幸福な生き方であると、そう思います。

 

「自分の存在を肯定する」とは、具体的にどう肯定すれば良いのか?
と考えた時、
人間というのは、「人間という生物種」の子孫繁栄が自然の摂理における目的であるとも言えますので、
(目的や意味はないと書いたが、自然淘汰という物理現象においては、子孫を残すことを目的に動いていくことだと言えるので)

仮に自身の子孫を残せなかったとしても、その事実を悲観して自分の存在を否定するよりも、
「人間という生物種全体にとっての繁栄」という、視点を上に持っていくことにより、
自分が人間という生物種にとって、どういう役割ができるのか?と考えることで、自分の存在を肯定していけるのではないかと思います。

もちろん、人間中心の視点ではダメだと思うのであれば、その視野を「地球生命全体」という視野に広げて、自身の地球に対する役割を見出していくことが、
自分の存在を肯定することに繋がっていくのではないかと思います。

それが「世界の進化の歴史」に参加することに繋がるのではないかと思います。

 

(一連の文章は、全て私個人の勝手な解釈による私自身の言葉であるため、ニーチェを含む哲学者自身の言葉はほとんど含まれていないことを予めご了承ください。)

 

私が書いた「世界の進化の歴史」への参加は、どちらかと言わずともヘーゲルの絶対精神の哲学に近いものがあります。
ニーチェ自身は、絶対精神のような超越的存在を否定した側ですので、ニーチェとの哲学とはまた違った表現になっています。

ニーチェは実存主義の人なので、個人の実存に焦点を当てた哲学と言えます。
ゆえに、世界がどうであろうと他人がどうであろうと「自分にとって絶対的に揺るがない価値観、幸せを見つけ、それに基づいて生きること」という哲学がニーチェの哲学なのでしょう。

 

私の永劫回帰説に注目した理由は… 輪廻転生からの「解脱」というものがどうしても感覚として信じきれなかったというところにあります。

純粋にプラトンのイデア論を信じると、天上界の存在や、天上界への帰還という「解脱」という概念も出てきます。

だが、そうなると、
「なぜ、もともと天上界にいた魂が、地上に降りてこなければならなかったのか?」
「解脱する基準の客観性に欠け、どこまで達すれば解脱できるのか?の基準が曖昧」
という2つの疑問が出てきてしまいます。

私はこの疑問をどうしても解決することができませんでした。
結果、「天上界」や「解脱」という概念は棄却せざるおえなくなりました。

となると、そもそもこの世界には「意味や目的」なんてものは無いのではないか?という考えに行きつきまして、
ニーチェの哲学に注目することになりました。

 

では、永劫回帰説を前提とした場合の、プラトンの言う「イデア」の存在は、どういう位置づけになるのだろうか?

私個人の見解としては、イデアは「アカシックレコード」みたいなものなのだろうと、そう思いました。
その「アカシックレコード」が、プラトンの言うイデアであり、クオリアであり、意識の源であると、
そう思います。

音楽に触れている時や、絵画に触れている時、旅行を介してのたくさんのクオリアへの接触は、まさに「イデアへの接触」であり、
プラトンの言う「想起説」の想起であるとも言えます。
ゆえに、それらに触れている時に幸福感を感じるのだと思います。

 

現時点の推してる哲学
・パルメニデス(エレア派)
・プラトン(イデア論)
・プロティノス(新プラトン主義)
・フリードリヒ・ニーチェ(永劫回帰)
・ロジャー・ペンローズ(量子脳理論、サイクリック宇宙論)

 

キーワード

汎経験説(量子脳理論)

永劫回帰(サイクリック宇宙論)

アカシックレコード(イデア、クオリア)

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