一者との合一は不可能である。
一者は、常に持続を創造する存在を超えた存在であり、
存在を超えた存在であるため、我々存在する者が一者と合一することは不可能であると思われる。
では、仏教の言うところの「涅槃に入る」とは、どのような状態を指すのだろうか?
おそらく涅槃に入るとは、宇宙そのものの持続(つまり宇宙霊魂)と合一することであるのではないだろうか。
ショーペンハウアーは、意志が表象として姿を表す際には段階があると言った。
この段階をイデアとして表現し、自然法則を低位のイデアとし、植物、動物を経て、人間を高位のイデアとした。
私が思うに、このイデアの段階は「創造」の段階であると思われる。
高位になるほど、より精錬された創造の賜物である。
創造は、意志の闘争により生み出されていくものであるため、創造と意志の闘争は常にセットになっており、涅槃とは程遠いものである。
ゆえに、自然法則等の低位のイデアになるほど、涅槃に近い存在であると言える。
つまり、「涅槃に入る」とは、低位のイデアに生まれ変わることではないだろうか。
生態系の食物連鎖において、生産者、一次消費者、二次消費者とある。
二次消費者は、より精錬された創造を持続させるために、一次消費者を捕食することによる莫大なエネルギーを得る必要がある。
まさに意志の闘争による創造である。
人間は特に、創造的欲求を常に追い求める存在であり、人間は「創造の究極体」であると言える。
ゆえに、最も煩悩の強い生き物は人間であると言える。
と共に、最も煩悩と無縁の生き物は「生産者」や「分解者」であると言える。
つまり、生産者や分解者といった、低位のイデアの生き物であればあるほど、涅槃に近い生き物である。
宇宙霊魂(宇宙の持続)との合一が、涅槃に入るということであり、
一者は、常に創造を生み出す存在を超えた存在である。
~補足~
上記に記載した >生産者や分解者といった、低位のイデアの生き物であればあるほど、涅槃に近い生き物である。 を考えると、
原始宗教や世界各地の神話の形態である「自然崇拝」が、真理に近い信仰の形態であると考えることができる。