ショーペンハウアーは世界を、「意志は究極の目的を欠いた無限の努力(闘争)である」と捉えた。
ベルクソンは世界を、「進化とは持続的な創造の推進である」と捉えた。
ベルクソンの言う「創造」を支えているのは何か?と考えた時、
「創造」を支えているものこそ、「究極の目的を欠いた無限の努力(闘争)」にあるのだろうと思える。
意志の絶え間ない闘争が、絶え間ない創造を生む。
つまり、この世は意志の働きによる無限の闘争による創造の場であり、
それが世界の本質であると私は思う。
そして創造は「快」を生み、闘争は「苦」を生む。
快と苦は、常に表裏一体なのである。
「創造」を選んでひたすら闘争の場に身を投じる生き方が正解なのだろうか?
それとも、「闘争」という苦の連鎖から脱するために、「意志」の消失に努める生き方をするのが正解なのだろうか?
どちらの生き方も正解であるように思える。
どちらの生き方を選ぶかは個人の自由である。
仏教で言う解脱とは、この闘争の場からの離脱であり、
解脱そのものが生命の普遍的な目的ではなく、あくまで「創造の場を選ぶか?」それとも「そこからの解脱を選ぶか?」という、単に「生き方の違い」でしかないのではないか?とそう思いました。
解脱とは、プロティノスの言うところの「一者」との融合であり、創造とは「一者」が多様性を創造する行為である。
そして「創造」を支える闘争の場に身を置く生き方を、孔子は儒家として説き、
「闘争」の場に参加しない生き方を、老子は道家として説いたのだろう。
生き方に正解は無く、どちらの生き方も正解である。
仏教の言葉で言うなら、涅槃に入る生き方をするのも正解であり、輪廻転生の場に留まり続ける生き方をするのも正解なのかもしれない。
そして、生き方の実践において何よりも大事なことは「適切な環境」に身を置くことである。
ところで、論理的に「世界」そのものを語ることはそもそも不可能。
無限後退… の先に何があるのだろうか… 語ることはできない…
「一者」というのは、そもそも存在をも超越した存在であり、
人が知覚することも想像することも不可能な存在。
証明することも不可能だし、永遠に謎なままであろう。
人間が知覚できる領域を超えているということなのだろう。
分析で語れることは極少数。主観的な直感でしか認知できないことがある。
いや、直感でも認識できないことがある。
言語化できない直感と言えようか。
直感でも認識できないこともあるのであれば、
それを信じるのであれば、「一者」というのを私は信じたい。