自己意識の中心に行けば行くほど、抽象的でタンジブルではない無色透明な原形質のようなものになる。
参考:https://youtu.be/9nAwBdrinZ8
おそらくであるが、その無色透明な自己意識の中心に「真理の扉」があるのだろうと思われる。
悟りを開くということは、自己意識の中心にある真理の扉を開くということなのかもしれない。
そして、その真理の扉を開く方法として「瞑想」という方法がある。
真理は、真理の扉を開いて実際に心の眼で見て初めて解るものであり、それは言語化不可能なものなのだろう。
ウィトゲンシュタインの言う「語り得ぬものについては沈黙しなければならない」というのは、真理の言語化不可能性を表している。
それをなんとか言語化して伝えようとするのが、宗教であり哲学である。
そして、言語化不可能な真理を言語化する上で、人それぞれの異なる解釈のために宗教や哲学の多様性が発生する。
プロティノスの一者との合一や、神という概念、仏教の悟りや、ユングの集合的無意識、西田幾多郎の絶対無という概念、
これら様々な言語化による解釈の多様性がある。
これらの解釈は、皆どれも真理を知る上でのヒントになる。
だが、本当の意味で真理を悟るためには、自分自身で実際に自己意識の中心にある真理の扉を開いて心の眼で見て確かめる必要がある。
実際に自己意識の中心にある真理の扉を開いて心の眼で見て確かめる、これが真理を悟る唯一の方法なのかもしれない。