人生とは何か?
私はなぜ生まれ、そしてなぜ生きて、なぜいつか死ぬのか?
誰もが一度は疑問に思うことだろう。
古代から人類は、このことについて疑問に思い、そしてそれに対する解答を探求してきた。
その中で形成されたのが「宗教」である。
原始的な最初の宗教は、自然崇拝といったアニミズム的なもの、またはシャーマニズム的なシャーマンによる儀式を主としたものであった。
アニミズム的な原始宗教は、身の回りの自然を信仰対象とし、その身の回りの自然を神として捉え崇拝するものである。
シャーマニズム的な宗教は、シャーマンという儀式を行う者がいて、そのシャーマンの儀式やそこから得られる洞察を主に信仰対象とした。
そしてそれは、時としてアニミズム的な要素も含んでたりもする。
シャーマニズムな原始宗教の宗教的洞察の原点は、「幻覚作用のある植物」であると思われる。
アヤワスカを始め、様々な幻覚作用を誘発する植物が、この世には存在する。
幻覚作用により、一種の宗教的体験を引き起こし、「神を見た!」「神からの啓示を聞いた!」「輪廻転生を見た!」「天国と地獄を見た!」といった宗教体験を経験する。
それらの宗教体験から得られた洞察をもとに、シャーマニズム的な宗教は創られていった。
そして、世界的に知られている宗教の多くも、その「幻覚作用による宗教体験から得られた洞察」をもとに創られたといっても過言ではない。
ユダヤ教において、モーゼが「燃える柴を見た」「声を見た」といった表現はまさしく薬物の影響から来るものだと示唆される。
聖書の中で言及されている「アカシアの樹皮でつくる調合薬」がその薬物に相当するのだろうと思われる。
また、ゾロアスター教においては「ハオマ草」から造られる神酒がそれに相当し、バラモン教(古代ヒンドゥー教)においては「ソーマ草」から造られる神酒がそれに相当する。
多くの宗教はこのような経緯を経て創られていったのである。
では、これらの幻覚作用により得られる宗教体験の「本質」はいったいなんなのだろうか?
それは一言で言うと「クオリア」である。
主観的体験は全て「クオリア」が作り出しているのだ。
幻覚だからといって軽視はできない。我々が今見てるこの現実世界そのものも、我々の脳がクオリアによって作り出した「現実世界の写し」であり、現実世界そのものを見ているわけではないのだから。
幻覚も「脳内現象」ならば、今見ている現実世界も「脳内現象」なのだ。
では、その「クオリア」とは一体なんなのだろうか?
現代物理学では説明できないこの「クオリア」という存在。
現代物理学には、クオリアを記述できるツールは何もないのだ。
つまり、現代物理学には欠陥があると言っても良い。
物理学を拡張させる必要があるのだ。
そこで出てくるのが「性質二元論」という考え方である。
これは、「この世界に存在する実体は一種類だが、それは心的な性質と物理的な性質という二つの性質を持っている」という考えである。
そして、物理的な性質は「超弦理論」という一つの万物の理論によって記述できるのであれば… 心的な性質も一つの理論(心的な万物の理論)によって記述できるのではないか… そう私は思う。
その心的な万物の理論とは、「集合的無意識」を指しているのではないかと私は思うのだ。
全てのこの世界の存在は、一つの万物の理論によって記述でき、「存在に実体は無い」
「空」なのだ。
国家という概念は人間が作った概念であり、実体は無い。
貨幣という概念も人間が作った概念であり、実体は無い。
私という存在そのものも、あらゆる要素が集まってできた「要素の集合体」にすぎず、私という存在に永遠不変な実体は無い。
この世の全ての存在は「永遠不変な実体の無い」存在なのだ。
強いて言えば、我々は「幻想の中」を生きているといっても良い。
「全ては幻想」
ならば、我々の人生の意義は一体なんだろうか?
人生そのものも幻想でしかないのなら、なぜ我々は生きる必要があるのだろうか?
おそらく…「幻想に価値を付ける」ために生きているのかもしれない。
幻想に対して「価値」を付けれるのは、我々生き物しかいない。
生き物は「幻想に価値を付ける」ことで生の活動を営んでいるといっても良い。
「幻想に価値を付けて、その中で自由という名の幻想を体験する」それが生きる意味なのかもしれない。