諸法無我
全てのものごとは影響を及ぼし合う因果関係によって成り立っていて、他と関係なしに独立して存在するものなどない、という真理
(こちらから引用:https://www.nichiren.or.jp/buddhism/shaka/02.php)
つまり、「これが『私』です」と示せる実体としての『私』は存在せず、『私』という存在は他との関係性によって成り立っているということなんですね。
「私は学生です」
「私の趣味はスポーツです」
「私は会社員です」
「私はここに住んでます」
これら、ありとあらゆる「私」という存在を説明するものすべては、「私そのもの」ではなく、あくまで「私を作り上げる社会との関係性」を説明しているにすぎない。
「私」という人物そのものを直接的に示せるものは何もないのである。
…というのはたしかに真理である。
が、それでも「私」というものを直接的に説明したい
と考えた時に、
なるほど、これなら直接的に私という存在そのものを説明できるかもしれない、というものがありました。
「私という人生の全歴史」
つまり私の『人生史』そのものが、私固有のものであり、私そのものを説明できる最高の方法ではないかと、
そう思いました。
私という実体をあえて定義するのであれば、
「私という人生の全歴史」が、『私』という実体ではないかと、
そう思いました。
つまり、ここから言えることは、
私を説明するにあたり、
『この世に私が生まれてから今に至るまで、どのような経験をして、どのような出来事が特に印象に残り、どのようなことを学んできて、その結果として、どのようにして今ここにいる私というアイデンティティーが形成されていったか?』
を説明するのが、一番良いのではないかと思いました。
そして、それが『阿頼耶識』であるといえます。